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KING SEIKO / 44-9990 (sold)

諏訪精工舎のグランドセイコーに対抗するべく1961年(昭和36年)に第二精工舎から発表されたキングセイコー。1stモデルを改良しハック機能を追加した通称44KSKと呼ばれる2ndモデルで1966年7月に製造された個体です。同じ44-9990モデルであっても製造時期によって文字盤やケース、ムーブメントに様々なバリエーションがあり、こちらは裏蓋の盾メダリオンやムーブメントに大きなカマ状のハックレバーを備えた初期型にあたるモデルとなります。一見ごく普通のシンプルなデザインに見えますが平面や直線を主体としたデザインは明らかにそれまでのセイコーウォッチとは異なり、後の「セイコースタイル」へと繋がる萌芽のようなものを感じさせます。力強くエッジの効いたラグ、大胆に平面を取り入れた長短針、見る角度によりきらきらと輝く多面カットのアプライドインデックス、トップをフラットに成型したボックス型風防とポイントで見ればどれもなかなかに主張の強いディテールですが、全てが完璧に調和しひとつの時計として成立しています。搭載するムーブメントは1958年(昭和33年)に第二精工舎初の独自設計モデルとして発表された「クロノス」の54系キャリバーを改良したもので、石数を25石まで増やしハック機能や微動緩急調整装置を追加するなどキングセイコーの名に相応しいハイエンド仕様となっています。

KING SEIKO

1881年(明治14年)、服部金太郎が現在のセイコーの前身となる服部時計店を東京の京橋采女町(現在の銀座)に創業する。当時は輸入時計の卸しや中古時計の修繕・販売事業を行っていた。服部時計店の創業時から時計の国産化は大きな目標であった服部金太郎は1892年(明治25年)に時計製造工場として精工舎を設立し掛け時計の製造を開始、その後1913年(大正2年)には国産初の腕時計「ローレル」を完成させる。国産腕時計メーカーの先駆者となった精工舎はさらに事業を拡大していき、1937年(昭和12年)には生産増強を図るために腕時計部門を切り離し東京の亀戸に第二精工舎(現セイコーインスツル)を設立した。その2年後には同じく亀戸に本社工場も竣工するなど順風満帆に思われた道のりであったが、太平洋戦争の影響により民間用時計の製造は年を追って減少していき、終戦の年である1945年(昭和20年)にはほぼ生産中止に近い状態にまでなってしまった。戦災により亀戸工場は壊滅的な被害を受けたため戦後は疎開先であった桐生、富山、仙台、諏訪の工場で生産を再開することとなる。1949年(昭和24年)に諏訪を除く各工場が撤収され亀戸工場を中心とした生産体制への復興を図ることとなるが、諏訪の協力工場のひとつであった大和工業はその後も腕時計の製造を継続し、1959年(昭和34年)には第二精工舎から工場事業を譲受して社名を諏訪精工舎(現セイコーエプソン)に変更した。亀戸と諏訪、ふたつの工場は競うように新モデルを開発し諏訪精工舎からは1950年(昭和25年)に戦後のセイコーの腕時計の雛形とも言える中三針モデル「スーパー」や1956年(昭和31年)にはセイコー初の独自設計による腕時計「マーベル」などが誕生。亀戸の第二精工舎からは1955年(昭和30年)に諏訪で開発されたスーパーの改良型モデルである「ユニーク」や、1958年(昭和33年)には後のキングセイコーにも繋がる礎ともなった第二精工舎初の独自設計モデル「クロノス」などの傑作モデルが世に送り出された。1960年(昭和35年)、「世界に挑戦する国産最高級の腕時計をつくる」という志のもと諏訪精工舎からグランドセイコーが発表される。国産では初めてスイス・クロノメーター検査基準優秀級規格に準拠したモデルとして社内検定を合格した歩度証明書付きで発売された。また、1967年(昭和42年)に発表された44GSでは「燦然と輝く腕時計」を実現するべく日本特有の美意識を原点として編み出された独自のデザイン理念「セイコースタイル」を確立しデザイン面で現在のグランドセイコーに大きな功績を残すものとなった。諏訪精工舎からグランドセイコーが発表された翌年の1961年(昭和36年)、第二精工舎からもクロノメーター級の精度を目指したハイエンドモデルである「キングセイコー」が発表され、グランドセイコーとともに国産腕時計の最高峰モデルとして双璧をなすこととなる。

1960’s KING SEIKO 44-9990 / Thank you sold out!!!

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